青い鳥はつぶやく

オルタナティブ教育から、バイトをし結婚をし、グラフィックデザイナーやブロガーなどを目指しながら得たいろんな産物(知識や経験)をつぶやき続ける、そんなブログです。

慣れないようにする、という難しさ

 

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スマホを手に入れてしまいました。

iPhone5から数年間AQUOSガラケーを使いついにそれすらも使えなくなり(充電できなくなりました)

丸々1ヶ月ぐらい、もはや携帯のない生活を送っていました。(周囲の方々にはご迷惑をお掛けしました)

 

そして、今、iPhone11が、手に入り、浮かれている矢先ですが、やはり浮かれている場合ではないと思うんです。

 

 

常に満足しておく、ということ

僕は将来はそれなりにお金に不自由なく暮らしたいですし、色んな取り組みをもっと大きなものにして、できることを増やしたいと思う中で

 

一つ懸念している事があります。

それは、どんな状況であれ人は慣れてしまうということ。

 

昔はアルバイトにて採用してもらえたことで喜んだり

本を読めたことが嬉しかったり

 

そんな些細な喜びはいろんなところにありました。

 

でも気づけばそれらが、普通のことになっている。

 

どうやら、人間は、なにも考えずに過ごしていると、今の状況があたかも標準的(あるいはそれ以下)であるかのように過ごしてしまうようで。

 

ということはですよ。

 

 

今の状態で、たくさんの収入を得ても、仕事が大きくなっても、数ヶ月すれば慣れてしまうのではないか、標準化してしまうのではないか

 

そんな思いが事の始まり

 

そこから考え、至ったのは

 

今に満足できないならば、理想叶えた後でも同じである

 

そういう考え方です。

 

振り返る力

そこから出来ることはなんなのだろうか

 

例えば家族や友人に対しても慣れはあります

 

自分も奥さんも父も母も妹もその周りの人も友達も

 

いることに慣れていて、当たり前です

もちろん、ここぞというときに感謝はします。

でもその人が生きていることに対しては、慣れているのです

 

生きてることに感謝するということ。

 

いつしか読ませてもらった、アドラー心理学を扱った一冊「嫌われる勇気」でも、そんなことが書かれてました。

 

もしも、家族、友人が、交通事故などに遭い、生死を彷徨い、その後、なんとか一命を取り留めたとき。

 

その人が生きていることに心から感謝できる

 

そのようなことが上記の本でも記述されていました。

 

 

人は失うことに意識を向けた瞬間、それが有ることを当たり前と思えなくなるようです。

 

 

 

だから僕は考えました。

どうやったら、そんな感覚を再現できるだろうと。

 

 

僕は多くのものを産まれた後で貰いました

 

だから近頃は、そんな感覚を思い出した時に、ふと振り返ります。

 

パソコン、スマホ、服、お金、食事、道、家、お風呂、飲み物、バイト、カメラ、本、家族、友達

 

書き切れないですが、色んな持っているものが無かったらどうなっていたのか?

 

そんな事に想像力を働かせていると、忘れていた、豊かさを思い出せることに気づきました。

 

 

そうやって私物化をやめていこうというのが、自分の当分の指標です。

 

今持っている物や繋がっている人は、私物化できない

 

無くなって良い物ではもちろんないですが。

 

いつ無くなってもおかしくはない物。

 

だから有ってくれる事に感謝し続けたい。

そして当たり前にしたくない。

 

色々、叶えたいことはあるけれど、最後までその感覚を忘れてないならば、少なくとも満足な人生を送れそうだなと思います。

 

こうして記事を読んでくれた、あなたも自分にとって当たり前にしたくない存在です。

 

読んでくれてありがとうございます。

 

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 

 

【子育て】ゲームを超える体験はあるのか?”やりたくなる”とはなんなのか

子供はゲームがだいすきです。

 

しかし、ゲームは悪影響であるという懸念から、ゲームをする子供に対していい顔をする親は少ないです。

 

 

 

ゲームの悪影響というのは確かに顕著です。

 

目は悪くなりますし、体も動かさずに、首は気づけば曲がっていて、なかなか姿勢の悪いこと。

 

一番、懸念したい点としては感性がバランス良く育たないこと。

 

体を動かさないことによって五感の中で一番大切な「触覚」が成熟しなくなってしまいます。

【五感】視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚

 

感性が成熟しないと

受動的、無気力、流されやすい、自分を持てない、否定的、無価値感

 

「自分の感じることがわからない」ということから程度に応じ様々な欠点が生まれます。

 

なので、ゲーム以外にも、外で遊んだり、自然と触れ合ったり、知識を仕入れたり、美味しいものを食べたり。

 

いろんな、経験を通して、感性を育てることは、親として一番大事な仕事だと、個人的にですが思います。

 

 

もちろん、ゲーム以外にもアニメや漫画も子供の興味を引き立てるものたちです。

 

 

そういうものから親は子供を遠ざけようとします。

しかし、僕はある本を読んで思いました。

 

そもそも「僕らの教育がゲームやアニメの体験に劣ってる」ということに

 

ついやってしまう体験のつくりかた

 

 ということで今回、読んだのはこちらの本です。

 

 

「ついやってしまう」体験のつくりかた 人を動かす「直感・驚き・物語」のしくみ

「ついやってしまう」体験のつくりかた 人を動かす「直感・驚き・物語」のしくみ

 

 

 

任天堂にて人気ハードwiiの開発などにも努めた、玉樹真一郎さんが、ゲームの体験について、そのカラクリをわかりやすく、まとめてくれた優良書籍です。

 

もともと、ゲームが好きだった自分には、うんうんとうなずく部分が多く。なかなか面白くて、読書後も、2回ほど読み返しました。

 

 

こちらの本は「ゲームの体験」のからくりを教える中で、それを日常に落とし込むことも可能ということを綴った一冊。

 

子育てに対してのことも、すこし書いていたのですが、1ページあまりで終わってしまったので、僭越ながら、この記事で教育への可能性について、もうすこし掘り下げたいなと思います。

 

 

直感的な体験とは

 

 子供がゲームばかりする、というのは見方によっては親の教育の面白さが、ゲームに負けた瞬間です。

 

 

とはいえ、ゲームはしっかりとお金をもらっている優秀なプロ集団が「おもしろい」のために作り上げたものですから、そう簡単に上回れるものではありません。

 

しかし「おもしろい」と思わせるために考えられ、デザインされた、そのゲームの仕組みは参考に値するものです。

 

その一つとして、「直感のデザイン」というのは「なるほど」と思わされます。

 

 

では、書籍にあった通りの先導にはなりますが、こちらの画像をご覧ください。

 

 

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任天堂1番の名作、マリオブラザーズの一番最初の画面です。

 

 

なんとここにゲームが「おもしろい」と思えるノウハウがぎっしりと詰まっているらしんです。

 

さて、そんな仕掛けが、どこにあるでしょうか?

 

 

 

 

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その仕掛けは4つほどあります

 

・マリオが右を向いている

・マリオが画面左に配置されている

・画面左側の背景に閉鎖的に高い山が配置されている

・画面右側に明るい色で雲と草が配置されている

 

 

これが何を示唆してるのかというと、つまり

「右に行きたくなる」ということです。

 

 

もう一度見てください、右に行きたくなりませんか・・?

 

これが直感的ということ。

 

「右に行け」と最初に表示してもいいですし、看板に矢印を置いてもいいわけですが

そんなことはしません。

 

あくあまで周りくどく、直感的に「右に行け」を示唆するためのデザインをたくさん、こしらえています。

 

マリオのデザインが帽子とヒゲというユニークなデザインになったのも、マリオがどっちを向いているのかわかりやすくする必要があったと言われています。

 

 

これを教育に落とし込むならば、どういう解釈ができるでしょうか?

 

 

 

 

 

つまりは「右にいきなさい」ではおもしろくないということです。

 

 

〇〇しなさい、という「命令的」「直感的でない」教育のやりかたは、一つ質が低い、ということです。

 

 

では、もう少し先に行きます。

 

歓喜の瞬間を作り出す、仮説→試行→歓喜

 

マリオが先に進み始めてしばらくすると、あるものが現れます。

 

敵キャラおなじみのクリボーですね。

 

 

この時プレイヤーはなにを思うでしょうか。

色々、思うことはあるでしょうが、実は無意識のうちにプレイヤーはクリボーが現れて喜んでいるというのです

 

 

敵キャラが現れて喜ぶ理由

 

それは、「右に進むことが正しかったんだ」と確信することができるためです。

 

 

「右に進むのかな?」と考え(仮説)

実際に右に進み(試行)

クリボーが現れることで「合ってた!」と思う(歓喜

 

 

これが

仮説→試行→歓喜

という、ゲームを「おもしろい」と思わせるための型です。

 

この時初めてプレイヤーは「おもしろい!」と感じます。

 

 

ということはですよ

 

子供に 仮説→試行→歓喜 という型を教育のどこで組み込めるのか

 

やっぱりその一歩は「何でもかんでも教えない」というところが「仮説」の始まりなのかなと考えます。

 

例えば絵を描くときに、これはこうやってこう描くんだよと教えるのではなく。

ただ「色鉛筆」と「紙」を子供の目の前に置いておく。

 

すると子供はいろんなヒントから、勝手に絵を書き始めたりします。

あるいは、「これは何?」と聞いてくるかもしれません。

 

そんなときも「なんだろうね?ひとつ手に取ってみたら?」と少しづつヒントを与える

 

親にとって「わからないふり」というのは直感を刺激するための大事なスキルです。

 

できる限りそうして「直感」を意識すると、いろんな事柄に使えそうだなと思います。

 

 

上の事柄でもう一つ大事なのは、人間は常に「道具」というものや「文字」など用途や意味がありそうなものを見たときに「〇〇するのかな?」「こういう意味かな?」と自然と考えてしまうということです。

 

 

わからない漢字があったときオリジナルな読み方をしてしまうときありませんか?

 

「爪楊枝の持つ方の部分はなんで溝があるの?」って聞かれたら結構気になりませんか?

 

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人間は常に思考する生き物です、考えても意味がないのに、爪楊枝の溝が気になって仕方ありません。

 

そういう性質を利用して「直感的な体験」は出来上がります。

 

 

ちなみに、こうして道具や文字を見たときに「〇〇するのかな?」と考える現象のことを

 

心理学では「アフォーダンス」と呼ばれています。

アフォーダンス(affordance)とは、環境が動物に対して与える「意味」のことである。アメリカ知覚心理学者ジェームズ・J・ギブソンによる造語であり、生態光学生態心理学の基底的概念である。「与える、提供する」という意味の英語 afford から造られた。

 

難しい説明ですが、対象物にを見たときに「〇〇するのかな」と考えるという気持ちのことです。

 

そしてアフォーダンスと併せて使われる、シグニファイアという言葉もあります

 

これも簡潔に言えば、アフォーダンス(〇〇するのかなという気持ち)を伝えるための情報のことです。

 

マリオの山や草や配置、爪楊枝の溝、これらは全て、アフォーダンスを伝えるためのヒントであり、シグニファイアと呼ばれます。

 

まぁ言っても

「子供にシグニファイアをたくさん提示してアフォーダンスを伝えればいいよねぇ」

とか言ってもわけわかんないので、要領を理解しない分には、あまり多用できない用語ですね。

参考程度に

 

ゲームは直感の連続を駆使して「おもしろい」を作る

 

子供が自分で考えることはとても大事です。

そうすることで、「おもしろい」は生まれます

 

子どもはだけではなく、だれであってもですが「おもしろい」「たのしい」

とポジティブな感情を持ったものに対し、人間は近づきたくなる性質を持っており

逆にネガティブな感情を持ったものに対しては離れたくなる性質を持っています

(接近反応と回避反応)

 

直感の連続、は「おもしろい」の連続であり、ゲームが人を引き寄せ続ける不思議な魔力の正体です。

面白いという感覚を駆使して、子供がいろんなことにチャレンジできるような環境を、作りたいですね。

 

 

 

今回紹介した内容は、本の内容の3分の1すら紹介できておりません。

 

「直感のデザイン」以降の「驚きのデザイン」についても、どこかでかけたらなと思います。

 

とは言いつつも、すべてのことはかけません、気になる方は実際に本を読んでみてください。

 

ゲームをしたことがあるかたほど、理解しやすく、面白いですね。

 

 

 

直感とはなんなのか

爪楊枝の溝はなんの意味があるのか

 

是非とも追求していきましょう。

 

 

誕生日がやってきたから

昨日、10月6日にて、わたくし、あおの21年目がやってきました。

 

まだ人生の約4分の1、一番大事かもしれない4分の1

 

自分にとって初めての20代を過ごした1年間はほんとに濃厚で重要な1年になりました

 

それを知ってる人は自分以外には数えれるぐらいしかいないかもしれないけれど

自分にとってしか特別ではないのかもしれないけれど

ほんとに特別な一年だった

 

 

そしてそんな特別な一年をなるたけ清算し、新しい1年に向ける大事な「誕生日」

 

その瞬間、親しい人や会ったことのない人でも、だれかが祝ってくれて。

それが本当に幸せなことだなっていう話です。

 

1年間という時間、ひとりで頑張ってきたこともあって、誰も知らない悩みとかもあって

 

そういうことを「知られない」って、ほんとに悲しいことだと思うんだけど

誕生日っていう日に”生まれてきてくれてありがとうおめでとう”って言われるだけで

不思議とその人が知らないはずの”悩み”とか”頑張り”とかそんなことまで祝福されていく。

 

”自分にとって特別”だったものがその日だけは”みんなにとっても特別”になってくれる

 

1年という時間

365日という時間

8760時間という過ごしてきた自分だけの時間が誰かと繋がったような感覚になって

 

なんというか、すごく心が軽くなります。

べつにめちゃくちゃ悩んでるとかいうわけではなくてね。

もっとこれからいろんな苦悩があるとおもうだろうし

 

でもそうやって1人で頑張ったり、辛かったり、苦悩したりして孤独になっても

誰かに知られようと必死になる必要はないんだなって思いました。

”誕生日”っていう日に丸ごと祝福してもらえるなら

 

次の365日の間も、そうやって祝福されたことを忘れなければ。

 

それで十分なんだなと、思いました。

 

 

こんな記事を書いてると、頭の中でずっと熊木杏里さんの「誕生日」が流れています。

 

子供の頃なんとなく聞いてたこの曲も、今、歌詞を読むと思ってることにぴったりでえらく響きます。本当にいい曲です。

 

おめでとう 今日までたどり着いたんだよ

辛いことの方がよくあるけれど

ありがとう 理由はなにもないんだよ

あなたという人がいることでいいんだよ

www.youtube.com

 

ここまで辿り着きました。

 

誕生日という日があるから胸を張ってそう言えます。

 

自分のことを知らない人から、日常を一緒に過ごしてくれてる人たちまでほんとにありとあらゆる方々がいたおかげで、濃厚で特別な1年を過ごせました。

 

ありがとうございます。

 

 

そして、自分と同じように、誕生日の人がいたら全力で祝福したいなと思います

おめでとうございます。

 

今日のテーマ

「生まれたことに意味がある」

 

 

 

 

 

 

 

如何にして”一方的になれるか”が豊かさを左右する【他者と繋がりすぎない生き方】

今に至るまでの考えとして”一方的でいること”の大切さと難しさについて考えていたので、そのことを書きます。

 

”一方的になる”というのは”他者との関係性において”、ということ

 

「他者との関係の中で自分の一方的な思いを持っておく」これこそが僕の大切にしたい、他者との関わりの一つです。

 

 

「自己中心的なのが一番ってこと?」と言われれば、その通りです。

しかし世の中で言われる”自己中”とは違います

 

僕の性格では、自分勝手で自己中心的な行動をしていてはこの先、苦労していくことは目に見えています。

 

世間一般でいう自己中心的とは

まず誤解を恐れずにいうと、”一方的がいい”というのは、”自己中心的”という意味でも間違いがありません。

 

しかし世の中で自己中心的な人というのは嫌われる対象として言われがちですし。

ある程度、来るものは拒まずな僕自身も度がすぎてる場合には距離を置きたいものです。

 

そういうとき人は”自分”という存在を世界の中心においていまい、そういう意味で”自己中心的”です。

うまく立ち回らなければ嫌われやすい存在となり、盲目的なこともあり、勘違いも多く、とても器用でなければやっていけません。

 

僕はできるだけシンプルで簡単な生き方を求めています。

 

なので上記でいう”自分を世界の中心に置く”という”自己中”ではなく

「自分から始める」ということなんでしょうか・・・

 

日本の接客関係に物申す

例えの話をします。

 

接客業会にてよく聞きます、「お客様は神様」という言葉

三波春夫さん、歌手の方がインタビューにて答えた有名な言葉なんだそうです。
 
今現在に至ってこの考え方は、度々、否定される立場にあります。
それはお客様が店にはなんでも言っていいしやっていいものだという勘違いを生んでしまったからです。
 
 
「お客様は神様」という考え方は素晴らしい考え方だと思います
それは与えることに躊躇することもある中で、無条件で何かを与えることの価値を説いたからです。
 
しかしその考えが素晴らしいと思うとともに、客は自分のことを神様だと思ってはいけない、とも思います。
 
ここに”一方的”である必要性を感じるのです。
 

”自分がやる”ということに重きを置く

「お客様は神様」という言葉はいわば与える側の気持ちであって、当のお客様が求めるべきものではありません。

 

サービス側は「お客様は神様」という気持ちとともに

お客様側は「普通の私たちに対してそんな風に与えてくださってありがとう」と感謝を述べることがいちばん綺麗な形です。

 

注目したいのは、これがどちらも”一方的”だということ

店員側にもお客様側にも”感謝”という一方的な思いがあってそこで完結してもいいものです。

 

その一方的な思い同士が絡み合った時、最大の相対関係が生まれる気がしています。

 

たとえば、誕生日プレゼントを渡した時に、「返してね」などと気持ちを要求しなくともお返しがくるようなこと。

 

「返したい」という思いもまた”一方的”です。

 

そして与えた側も「一方的な思い」ですのでお返しが来なくても、そこで満足できる、という点が肝です。

 

 

もうちょっと例を言うと。

僕の住む田舎では、基本すれ違った人に挨拶をしますが、なんらかの原因で挨拶を返されなかった時もあります。

 

”挨拶に気づいてなかった”など理由はなんであれ、僕自身はなんだか気まずい思いをしていました。

というか返事がないっていうのは思ってるよりも気持ちが悪いものです。

 

でも、とある本で”挨拶をしっかりしよう”という項目にて

 

”挨拶を返されないことがあるかもしれませんが、気にしません、あなたが挨拶をしたという事が大事なのです”

 

ということが書いてあり、(なんの本かど忘れしました・・)それからは7割ほど挨拶が返ってこない、スーパーのレジ接客でも「おはようございます」と言うようにしています。

相手からのレスポンスを必要としない

 

一方的とは「自分で完結している」という状態のことを言います。

 

なぜそれがあれば豊かになれるのか

 

”コントロールが効く”からです。

 

挨拶するたびに、相手の返しを必要としていては、時として”失敗”してしまいます。

しかし「挨拶すること」自体に価値を持っておけば、挨拶さえできれば100%完了します。

つまり成功の可能性が上がり、ハードルが下がると言うことです。

 

それ以前に”挨拶できない”という欠点があるならば、それは直さなければいけませんが・・。

しかし、挨拶を返さない相手まで直す必要はありません。

 

そうやって改善すべきことに境界線を置けることも、このやり方のいいところ。

 

相手が自分のことを好きか嫌いか気になるなら、”好きではないだろう””嫌いではないだろう”程度で考える。

 

欠点をもった相手を目の前にしたなら、「自分はやらないようにしよう」と決心をする

 

できるだけそうやって、自分の範囲で収めようとすれば、豊かさはある程度コントロールの効くようになります。

豊かになろうとするのではなく、豊かさをコントロールする、というのは僕の中で画期的でした。

 

このやり方は「既読スルー」などの事象にも適応できます。

 

あなたも何か他人をコントロールしようとしていることはないでしょうか?

とすれば、それは人生のハードルをあげてるだけなのかもしれません・・

今一度、自分で完結できる価値を探してみるといいかもです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

みんなやっぱどこかで悪者を探してるし、被害者になりたいところがある

バイト先でのクレームとか愚痴やら

ネットに溢れる批判や

周囲に溢れる責任のラリー

 

もちろん自分も含めてそういう側面があるところを見ると、最近はすごくしんどく感じてしまうようになってしまった。

 

しんどいといか面倒臭く感じる。

 

そういうのに慣れていたいままでがおかしかったのかな・・。

 

ここからは自分の話。

 

自分は子どものころから文句言うタイミングっていうのを見計らっていて、だからちょっとしたことで文句を言う。

 

隙間を見計らって、正義感なのか自己犠牲心なのかわからないものを他人に押し付けたくなる。

 

だから揚げ足をとるし、他人の罪悪感をほじくったり、出る杭は打ちたくなるし、自分を犠牲にすることにためらいもなかった。

 

最近、そう言う癖と決別したくてずっと自分の中の根本的な原因と目的をずっと探している。

 

 

 

一つわかったのは、それで存在価値の上下をコントロールしてると言うこと。

 

 

自分の存在価値を確保できないがために、自分を貶めて誰かに哀れんでもらうことで誰かに必要とされようとしたこと

 

他人を貶めることで、自分は違うんだと”普通よりすごい”という特別感が欲しかったこと。

 

 

実際、何かを褒めるよりも自分や他人を否定し続ける方が随分と楽に感じていた。

 

少なくとも、そうすれば誰かに批判されなくなるから。

 

 

 

そういえば2chとか大好きだったなー

否定的な意見がなんだか力を持っているかのようにあの頃は思えた。

 

 

でも否定なんて誰でもできるよね

肯定も同じくだけどね

 

 

結局「可哀想な自分」がいなくても、いろんな人と仲よくなれたわけだし。

結局誰かを貶めなくても、自分が成長しなきゃなんの意味もなかった。

 

 

だから、どんどん責任の世界から今は、可能性を見ていくようにしている。

 

 

「誰が悪い」「誰かがやるべき」だけじゃなくて

 

「自分はどう思うか」「自分にできること」を考え続ける。

 

自分の中に「基準」と「コントロール力」を感じれば、こんなに他人のことばかり考えなくていい。

 

明日、誰かよりすごくなってるんじゃなくて

 

明日、今日の自分よりすごくなっている。

 

そのことに少しづつワクワクしている。

 

まぁでも、誰かのせいにするのは、なんか怒ってるんだなーとおもった。

大事にされないことが悔しくて。

 

だから、そんな昔の自分もひっくるめて、今、大人になった僕がワクワクのその先へ連れて行きたいなと思ってます。

 

今、仕事やバイトをしながら、やってることはそういう作業です。

 

 

【子育て】やっぱり親は子どもにどこまで関与するべきか、しっかりと決めておくべきだなって思う

現在、色々と活動の中、ゆとりが欲しいため、家族とは、ほぼ別居の形を取らせてもらっている現在。

 

奥様の方が子どもたちとのコミュニケーションが多いわけですが。

 

 

子どもというのはいつでも「できないこと」に満ち溢れている

 

いわばいろんな障害や問題にぶち当たりまくっている。

 

問題だらけだからこそ思うこと、親はどこまで子どもの問題に首を突っ込めるのか。

 

 

僕が通っていて、子どもたち二人が今も通っているデモクラティックスクールでは教育理念として「先回り」する教育をNGとしています。

 

怪我や喧嘩など危ないことを除いて、子どもが問題にぶち当たっているとき、答えをそのまま教えず、相談してくれるまではみまもるというスタンス。

 

 

そうすることで、「相談する」という行動も含めて、問題を解決しようとする能動的な姿勢、自主性が育まれます。

 

 

これはとても大事にしたいやり方で、そういう意味では、子どもがぶち当たる問題全てに親が関わろうとするのはやはり考えものであります。

 

 

複雑な例として、子どもたちはiPadが大好きなのですが、僕も奥さんもiPadが感性を刺激するに乏しいことを懸念していて。

 

こういう時に親は子どもにどう関与すべきなのかが大事になってきます。

 

 

一番、安直なやり方としては、iPadを禁止すること

 

でも僕自身も当時ゲームやスマホが大好きでしたが、それでも、時には宇宙の本を読んだり、絵を描いたり、外で遊んだりしていました。

 

 

そういう部分から見ると、そもそも子どもたちは「一番好きなことをする」というルールがあります。

 

ipadをすることが目的ではなく、一番好きなことをやるだけです。

それが今はiPadなんだということ。

僕はゲームの制限などは一切ありませんでしたが、他の遊びもしていたわけです。

 

結局 [iPad禁止法] はiPadをやめさせ、他のことに目を向けることはできても、iPadが好きという感覚を変えるには至らないと思いました。

 

そもそも、そこまで目が行き届きません・・

 

さらに、ルールを作ることによって「子ども」と「親」の対立の構造が明確に意識されてしまうことも一つ問題だと思っています。

 

 

今は結局、子どもたちの間にある[iPad予約制度]のルールに付け加えて

 

予約してる間(40分)は他の電子機器はできない。

 

というルールだったり

 

20時以降の電子機器の使用を禁止するなどなどの、一緒に生活する上での困ることに対してもルールを決めました。

 

 

 

結局これも先回りではあるわけです。

子どもたちがipadの影響で感性に乏しく育ち、将来には無気力な感覚や自分の意見がからない、物事の良し悪しが判断できない

 

などの影響がでてきます

それが、顕著になるのが十代後半の頃の話。

 

 

いわば、数年単位の先回り。

 

そこまでの未来を子どもが予測するのも難しいので、それぐらいは関与すべきなのかなとか、とにかくバランスが難しいところ。

 

問題に関与しすぎると、自主性がなくる

問題に関与しなさすぎると、できないことがそのままに

 

結局は子どもが[どこまでできて][どこまでできないのか]そういう部分を見極める必要がありそうです。

 

結局はどこかで解決する

 

iPadが感性に乏しくなるといいましたが

 

これは動きが限定されてしまうからです。

視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚

 

これら五感のうち視覚か聴覚しか使われていないため、感覚に偏りが出てしまいます。

 

 

この中で一番大事なのは「触覚」だと言われていて。

これらは、新しいものや自然に触れたり、運動など走り回ったりでも身につく感覚

 

 

だから、子どもたちと過ごす時には、時折家をでて、一緒に近くの池や川を見に行きます。

 

 

感覚が乏しくなるという問題については、何を隠そう僕自身がその当事者でした。

 

昔から、良いもの悪いものや自分の考えと他人の考え、ありとあらゆるものの区別がつきませんでした。

 

本当に感性に乏しかったです。

 

映画に感動しないことにも悩んだりしました。

 

自分の考えがわからず、とにかく麻痺してるようなあの苦しい感覚。

 

 

でも今は、そんな自分を変えたくて、20になってからたくさん本を読んで、たくさんいろんなことを考えて、解決の兆しが見えてきました。

 

 

だから、どんな風に悪い部分が残ったまま大人になっても

いつかは自分なりに解決しようとすることを僕は知っています。

 

それが1年後の話なのか50年後の話なのかはわかりません

 

むしろ僕は問題があったからこそ、ここまで勉強できたし、たくさん考えたわけです。

 

問題があってよかったと今は思います、

 

色々、子どものことを解決しようと必死になったりもしましたが、結局そういうことならば、そこまで力を入れた教育ばかりをせず、子ども達のなかにある見えないものを信じようと思いました。

 

 

今日のテーマ

「問題という”成長の種”を残しておこう」

 

 

【10年間の疑問】泣いている子どもに腹が立ってしまう原因がわかった。

 

僕は昔からいくつかの感覚の謎を抱えていた

 

誰もがあるかもしれませんが

 

まだ解明されてないものが多く、一つずつ「そういうことか」とバイト中など数ヶ月の思考の末、それらしい結論をつけることができます。

 

 

その謎の一つに「泣いてる子どもに無性に腹が立つ」という感覚がありました。

 

それは子どもを子どもと思い始める時期、小学五年生ぐらいから思っていたのを覚えています。

 

 

小学五年生の時にヤマダ電機で泣いてる子供を見て腹が立って、なんでイライラするのかわからなくて、もやもやした記憶。

 

 

もやもやしたというのも、子供が泣いてしまうことがどれだけどうしようもないことなのかもわかっていたので、そういう寛容でいたい気持ちと謎のイライラで板挟み

 

 

なんやかんや今、あの頃から十年経って、20を過ぎた今でも同じ感覚があって

 

でも、その感覚を追っているとやっと、その根幹にあった気持ちにたどり着きましたた。

 

 

こういう思考をするときはいつも、外的要因には必ず、自分の持っている内的要因がつながっているという考えから

 

どういう外的要因があるのか、そして自分の中のどういう部分がその行動に結びつけているのか、という部分から検索をかけます。

 

できる限り客観的に

 

泣いてる子供たちは外的要因であり自分の中にはいないわけです。

自分の中の要因とはなんなのか。

 

自分の中に「泣いてる」「イライラ」「子供」そんな検索をかけてすぐにわかりました

「泣いてる子供の自分の顔」が浮かんでくる

 

 

あぁ・・・・泣いてる自分にめっちゃ腹たつ・・・・

 

簡単な答え。

 

顔をくしゃっと真っ赤な顔をして、泣いている自分の顔に一番、腹が立ったんですね。

泣いてる子どもを見ることでその感覚と結びついてイライラしていた。

 

まんま自己投影

 

 

というか、ほとんどの問題がこの「子供の頃の自分が嫌い」という感覚につながっていたりして。

 

昔から鏡で自分を見るのもあまり好きじゃなかったですし

動画とかで自分の声を聞くとすごく嫌な気分に陥ってました。

 

だからこそ、今、そんな感覚もなくなって、いろんなことができるようになった自分を受け入れることができてるな、とか思ってて

 

過去の自分なんて、考えていなかったわけです・・・

 

まぁ、原因解明よりも解決が難しい

 

そういう意味では、まだ始まったばかり

 

いろんなことをできる自分は愛せるけど

 

何もできなかったあの頃を許せない。

 

あの頃の自分とどうやって仲直りしていけるのか。

 

少なくとも泣いてる子どもにイライラするという部分ではかなりスッキリしました。