青い鳥はつぶやく

オルタナティブ教育から、バイトをし結婚をし、グラフィックデザイナーやブロガーなどを目指しながら得たいろんな産物(知識や経験)をつぶやき続ける、そんなブログです。

質の高い「良心」を持ちたい

皆さんは道徳とか良心とか聞いてどんな印象を持つでしょうか?

 

僕は、漠然と「良心」というものに悪いような、良いような曖昧な印象を持っていました。

 

でもふと良心について考え始めて、結果「悪い良心」「良い良心」があると言う結論に至りましたので、その話をしたいのです。

 

 

「善悪」への勘違い

 

良心とは「善を行い悪を行わない」と言う気持ちです。

 

「善悪に基づいて、ルールを守る力」だとも言えます。

 

ただ、こういった定義には、勘違いを生む場合があります。

知っている人は飛ばしてください。

 

、という概念を

 

子供の頃みたアンパンマンのような、ヒーロー悪者という捉え方をしてしまうことです。

 

善い人と悪い人がいるという捉え方

 

ヒーローの行為をなぞれば、「善」だし

悪者の行為をなぞれば「悪」である

 

これは大きな勘違いです。

 

「善を行わない者は誰一人としていない」という概念があります。

 

アンパンマンは善を行っているし。

 

バイキンマンも自分にとっての善を行っているという概念です。

 

誰もが必ず良心を持っていて、善を行おうとしている。

 

凶悪な大量殺人犯であっても例外ではありません。

この世界観を知ってはじめて、良心の質の話ができます。

 

 

質の高い良心

 

僕のこれからの人生では、良心の質をあげていくことが大テーマとなっています。

 

質の高い良心を持てば、大きなエネルギーを得て、本気で人生がガラリと変わると思っています。

 

もしかしたら、先んじて良心の質について考えている考えの速い方もいるかもしれません。

 

その前に、一つ取り払っておきたいのは

犯罪者や悪役は、質の低い良心を持っている

という考え方です。

 

逆です。

寧ろ悪役や犯罪者の方が極めて質の高い良心を持っています。

 

バイキンマンはとても高い質の良心を持っています。

でなければあれだけエネルギッシュに粘り強く、悪事を行うことはできません。

 

アンパンマンも同じく、とても質の高い良心を持っています。

 

質の高い良心は強いエネルギーを生みます。

 

 

良心の質は、良心が自分の中にあるか自分の外にあるかで決まるというのが、僕の結論です。

 

 

そのルールは自分のもの?他人のもの?

 

自分の中の良心、自分の外の良心

 

と言われてピンとくるものはあるでしょうか?

 

自分の中の良心とは「自分できめたルールを守るため良心」であり

自分の外の良心とは「他人、社会が決めたルールを守る良心」であるというものです。

 

前者を「私的良心」と呼び(質が高い)

後者を「公的良心」と読んでます。(質が低い)

 

(かなり独自に進めてますが、似通った思想、哲学があったら教えてください。)

 

僕は現時点で確実に、公的良心が極めて大きな力を持っています。

 

なので質の高い良心を持ちたい

私的良心の力を強めたいとそう熱望しています。

 

どうやって公的良心は私的良心へと変わっていくのでしょうか?

 

そうやって、また考えてるうちに

人間は成長における、"とあるプロセス"を使って「私的良心」を強めていることに気づきました。

 

公的良心をぶっ壊す

 

とあるプロセスとは、反抗というプロセスです。

 

反抗期に対しては、いろんな意見や解釈があるので少し恐れ多いですが

 

僕はその反抗期というプロセスを公的良心を壊していき、私的良心を組み込んでいくプロセスなんだなと捉えています。

 

 

昔は「うるせぇ!クソババア!」罵倒を飛ばし、やんちゃだった子どもが大人になって、親孝行をするような感動的な歌もいくつか耳にしますが。

 

あれも、公的良心と私的良心の組み込みが上手くいった例だと思っています。

 

 

そして、もう一つ、僕は反抗期をほとんど経験していないのです。

 

「本当は何をしても良い」と考えてみる

 

もちろん反抗期になれば必ず、私的良心が育つわけではありません。

反抗期があまりに受け入れられず、反撃にあってしまうと、より反抗心は強くなり、最悪、大きな犯罪につながったりもします。

 

反抗期とは公的良心を適切に壊し、私的良心を組み立てるためのプロセスです。

 

公的良心を適切に壊すことが私的良心に繋がる例として、もうひとつ面白いものがあります。

 

シュタイナー教育を採用している幼稚園での話です。

 

どうやら、とあるシュタイナー教育を掲げる幼稚園の子供たちが"あまりに自由で" "とても思いやりがない"というのを本で読みました。

 

それこそ、通常の保育園で勤務している方では挫けてしまうほどに。

 

教育的な強要を行わず、悪いことをしても叱らないので、そういった環境になるそうです。

 

 

しかし、面白いことに、小学生になった頃には、とても思いやりを持つ、子供に育っているんだとか。

 

 

喧嘩や意地悪に大人が口出しをしないことで、あくまで自発的に良心を育み
「そのためにはどうしたら良いだろう」と考えるようになる。

 

まさに私的良心を上手く育んでいます。

 

他人が決めたルールよりも

自分が決めたルールの方が質が高いのです。

 

大人が介入しないことの大切さはここにあり。

良心の質の基準もここにあります。

 

 

万引きなどの軽犯罪もここで変わると思います。

 

他人がルールを作り与えても

 

他人が見てない時、という例外が生まれたりします。

 

 

それが万引きやいじめなどに繋がります。

 

監視カメラもまさに公的良心を刺激するための武器です。

 

一方、自分で決めたルールなら、そう簡単には破りません。

なぜなら自分がずっと見てるんですから、当然です。

 

 

さて、どうしましょう、僕はシュタイナー教育を受けていなければ、反抗期も迎えていません。

 

子供時代の私的良心を育む機会を逃したまま大人になったようです。

 

 

その対策として今、やっていることは、「本当は何をしても良い」ということを、度々考えるようにしています。

 

例えば、お金はないけど欲しいものがあるとき

 

「本当は何をしても良い、盗んでも良いんだよ?」

 

そう考えてみるんです。

 

そしてきっと「それでもしない」と考えるので

 

「なぜ?」と問いかけます。

「みんなが見てるから?」とも問い掛けます。

 

そして「自分がそうしたいから」そう決意を固める

そんなことをコンビニとかでやってます 笑

 

自覚と責任を持って自分で"選択"する

 

私的良心は「自分のやりたいこと」と直結しているので、エネルギーがとても強いです。

 

例えばダイエット本を読んだ時に

 

「本で書いてあったから」

と言うよりも

「本で書いてあったことを行う、と"自分"で決めたから」

と思っている人の方が、強い推進力を得ます。

 

すべてわざわざ選択する。

簡単な事ではありません

 

いくら意識的に念じても

無意識の中では、公的良心が渦巻いています。

 

他人が見てるからやる、守る

尊敬してるあの人が言ったから採用してる。

 

"自分で選んだこと"だと意識することで、少しずつ私的良心は鍛えられるのだと思います。

 

全ての選択の責任は自分にある

 

僕も、学びの中で、沢山の尊敬できる人たちがいます。

行動の規範としている、心理学や哲学がいくつかあります。

 

それでも、その人に言われたからやっている、と言う考えは一切、捨てようと思いました。

 

このブログに書いてあることも同じですね。

この考えを採用するかどうかは、あなた次第であり僕次第です。

 

「本当は何をしても良い」

「でもやらない」

「自分で選んだから」

 

僕の本心は今、ずるいことや怠惰な思考でいっぱいです

 

本当は何もやりたくない

何もしなくて良いよって優しくされて寝ていたい

 

お金なんてなくても欲しいものを手に入れたいし、食べたいもの食べたい。

 

自分がどれだけ投げやりに過ごしても、ただただ親切に接して欲しい。

 

 

反対に目標を実現したいという気持ちも本心です。

 

 

でも、上記で書いたような、だらしない思考も、紛れもない本心です。

 

きっと皆さんも、そんな思いがあるはずです

(ない方は失礼しました。)

 

今までは、その本心をごまかして

見栄えの良い本心だけを掻い摘んでました。

 

これからは、その醜くて、だらしない本心を、他人には見せずとも、自分には誤魔化さず、さらけ出そうと思いました。

 

「あーやりたくない」「今日は寝たい」

「怖い怖い」「何もせず願いを叶えたい」

 

 

 

それが自分なりの公的良心の壊し方でした。

 

本当に何もしなくなったらどうしようね

 

もし読んでる方も、自分の中の良心にピンと来たら、考えてみると良いかもです。

 

長文にお付き合いいただきありがとうございました。