青い鳥はつぶやく

オルタナティブ教育から、バイトをし結婚をし、グラフィックデザイナーやブロガーなどを目指しながら得たいろんな産物(知識や経験)をつぶやき続ける、そんなブログです。

【離婚のご報告】変化を求め続ければ、様々なことが完璧になる

綾乃さんの方が先に報告してくれていまして、遅ればせながら、改めてご報告します。

 

 

この度、婚姻を結んでいた綾乃さんと、籍を外し、新たな関係を築くこととなりました。

 

6年間の交際を振り返って、思ったことを書いていこうと思います。

 

理想を求めて

f:id:tubuyakuaoitori:20200416193530j:image

離婚に対してネガティブなイメージを持っていた僕でしたが。

実際にやってきた「離婚」は驚くほど穏やかなものでした。

 

離婚ってただ「もとに戻る」ってことなのかなって思ってたのだけれど、どうやら違うようで

 

綾乃さんとは、ずっと理想の形を探し出すために、近づいたり離れたり。

 

お付き合いを初めてことも、婚姻を結んだことも、籍を外すことも

 

6年間のうちに詰まった目まぐるしい変化は、全てお互いが理想を求め続けた結果

 

違和感を感じては変えて

理想を求めては変えて

 

面白いことに、綾乃さんとは今、一番、理想的な関係を築いています。

 

何か新しいものが生まれるときは、必ず何かを壊さないといけない。

「離婚」もまた創造なんだなと思いました。

 

今ここにいる自分が豊かに過ごしているのは。

「夫婦」や「恋人」という関係を通して、あらゆるものを共に創造し続けてくれた、綾乃さんのおかげであると、大いに感謝しています。

 

いいことばかりじゃない

 

交際の間はお互いにいろんな物を得ながらもいいことばかりではなかったです。

 

お互いの理想のギャップに苦しんだり、周囲の風当たりが強かったり、支え合うことが嫌になって逃げ出したり。

 

でも、妥協したり現状維持だけはしてこなかったような気がします。

事あるごとに、1ヶ月や半年で、関係や暮らしが変わり、今に至る

 

変化するときはいつも必死だったりする。

 

 

けれど、今、振り返ってみると、いらないことのように見える

「苦しい出来事」「悲しい出来事」「怒り」「不安」

 

いろんなネガティブが必要なピースとして、人生の土台に組み込まれていることが、わかります。

 

妥協して現状維持するでもない

中途半端に投げ出すでもない

 

ちゃんと始めて、ちゃんと終わらせて、変化を続ける

「変え続ければ全ては理想的に見えてくる」

これが6年間で得た、大事な、感覚です。

 

これからのこと


綾乃さんとの関係の中で、いろんなものが生まれました。

これからも、そういう刺激を受け続けることと思います。

 

綾乃さんとのこれからの関係は、名前が付け難いのだけど。

 

ふたりしか知らない深い部分を共有しあった「盟友」として、お互いが独立した理想を求めることを支え合えたらなと思います

そうした中で、創造も共に行っていきたいです。

 

これからは僕も綾乃さんも新たな関係を築いていって
自分の中で「違和感」や「理想」を見つけて、常に変化していくことだと思う。

 

 

きっとこれからだって苦しいことも悲しいこともある

 

でも壊して、創造して、変わり続ければ、全部一つのカタチになることを知ることができたから。

 

いざという時、勇気をもてる

 

この6年間は、僕にとって、一生忘れない、かけがえのない物になりました。

 

きっと、平凡な人生では、見つからなかったことだと思います。


そうした変化の先で今日も様々なものを創造したいと思います

今まで支えてくれた人
今、支えてくれている人
これから関わるかもしれない人

ここまで、ありがとうございました。
これからも、よろしくおねがいします

 
そして綾乃さん、今までありがとうございました。

これからも末長くよろしくお願いします。

 

遊具でまともに遊ばない子ども【ロボット人間時代の終わり】

この記事は僕がノートに書き込んでいたことをコピペしたものです

 

口調も内容もバラバラですが、読める方はぜひ読み進めてください。

 

ーーーーーーーーーーーーー

 

子供は時々なぜ公園の遊具などを従来とは違う遊び方をしようとするのか


滑り台を反対から登ってみたり、登ってはいけないところに登ったり、よく分からないところから飛び降りたり。


自由性

最近はゲームでもMinecraftをはじめとして、自分の世界を最大の自由度を誇る創造するということの、一種のブームが生まれた

マリオメーカードラゴンクエストビルダーズなど

(リトルビックプラネットやRPGツクールなどは昔からあったが)創造のエッセンスが各所で大型タイトルに適用されて、しかも大きく売れている

グランドセフトでは主人公に特殊能力をつけるチートがあったり
他にも色々あったけど

 

僕も結構、記憶に多い、ルールをどこかで壊せるゲームっていうのはやけに楽しい

 

やることが決まってなくてぶっ飛んだゲームというのは常に求められていて、名作と呼ばれることが多い。


みんな、何かをぶっ飛ばして何かに夢中になる


ゲームのぶっ飛ばし要素や自由性と言い
遊具をまともに遊ばないことと言い

ここに含まれている最大の意味は
やはり、人は他人に決められたことにはときめかないということ

さらに、自分で決めたことにはときめくということ

そういった単純明快なメカニズムだ

ゲームで言うならFF13はストーリーや音楽や戦闘システムなどとても良かったのに、一本道で自由度が低いということから、クソゲー呼ばわりされるようになった(本当にストーリーや音楽は良いんです、、)

ここで、ルールというものを考え直したいと思う。

ルールを破る、約束を破る

こういった子供(あるいは大人)をみて、あなたは眉をしかめるかもしれない。

しかし、先ほど書いたことが「規則を破る」という行動を肯定している事実を踏まえて考えて欲しい

ルールを守ることが、人間最大の価値であるなら、ゲーム会社は自由なゲームなど廃止して、マリオリスペクトの横スクロールゲームだけ発売してれば良い

でも残念なことに規則を破ることには需要があるのだ。


ルールは本当に破ってはいけないのか

子どもから大人までなぜ規則を壊して自由を求めるのか

それは、自分探しであり、人生最大の課題であるアイデンティティの確立のためだとおもう

人は他人のルールを破る、ということを通して、そのはみ出した部分からやっと自分を見つけ出す。


ルールを最も破る反抗期は思春期の頃であるが、そもそも、自然のままに反抗期に頼るのは、少し残念なところがある

子供や大人がルールを破ることは、貴重な経験だ

自分探しだ

そう日々思うことで、少し見え方が変わる。

 

僕は他人のルールや期待に沿って生きて、最後の希望である反抗期すらほとんど発症しなかった

原因は未だ解明中であるが、とりあえずここ2年間で本を100冊近く読んでやっと、自分の感情、感覚の輪郭が見えてきて、アイデンティティも生まれてきた。


でも、これは相当な作業だった、数十年とある人生に比べれば2年なんてと言うかもしれない

そういうものではない。


そもそも2年間登ってきた巨大な壁は見るだけで気の遠くなる壁だ、それを10年後にも、20年後にも先延ばしできたという、そういう話だ、考えただけで鳥肌の立つ事実だ。


始めなければ始まらない

さらに僕に関して言えば、たまたまはじまったのだ。

誰に勧められたわけでもなく(多分、勧められても行動に移さない)なにか大きなきっかけがあったわけでもなく

ふとジュンク堂に行って、ふと本を立ち読みし、ふと本を買ってから、いわゆる自分探しの旅ははじまったのだ。

もしかしたらジュンク堂に行ってめんどくさくなって引き返したかもしれない
本を立ち読みして、目次を見ただけで目眩がして本をそっと棚に戻して、進撃の巨人を読み返して、伏線の考察を止めどなくしていたかもしれない。
本を買っても、ずっと読まずにインテリアと化すかもしれない、そもそも読んでも2冊目は買わなかったかもしれない。


そういった幾つもの関門を超えて今に至る

今思うほど、どれだけ頼りない糸で結ばれた、偶然の産物だったろうか。

この偶然が生まれることは、なかなかないと思っている

(だから、最近では常に引き返そうとしている自分を見つめる、そうしてればもっとすごい偶然を生み出せるかもしれないねと。)


だからこそ、これからの時代、より自分を見つけ出しやすい教育や価値観が広まれば良いなと思う。

ルールや期待で縛る人間ロボット時代は終わったのだ

AIが発展して、人間はより人間らしさを取り戻さなければいけなくなった


AIと人間の一つの大きな違いは、ルールを破って自分の行動プログラムを見つけ出すところにある


僕らは子供も大人も含めて、ルールという社会にある狭い枠と向き合わないといけない

人の期待というレールに乗っかるのは時代遅れだ
そんな言葉は今のご時世月並みではあるけれど。

犯罪をしろというわけではない。

思いやりと勇気のバランスが必要だ

もちろん足りないのは勇気の方で
僕も含めて、みんな思いやりすぎなんだと思う。

勇気が常に足りない

勇気といえば、アドラー心理学を説いた、ベストセラーに嫌われる勇気という本がある。

この著者である岸見一郎さんは他の書籍にてこんなことを述べていた

「人は自分に価値を感じた時だけ勇気を持てる」

これはすごくキーワードのような気がしてます
どうでしょうか

ではまた

 

 

質の高い「良心」を持ちたい

皆さんは道徳とか良心とか聞いてどんな印象を持つでしょうか?

 

僕は、漠然と「良心」というものに悪いような、良いような曖昧な印象を持っていました。

 

でもふと良心について考え始めて、結果「悪い良心」「良い良心」があると言う結論に至りましたので、その話をしたいのです。

 

 

「善悪」への勘違い

 

良心とは「善を行い悪を行わない」と言う気持ちです。

 

「善悪に基づいて、ルールを守る力」だとも言えます。

 

ただ、こういった定義には、勘違いを生む場合があります。

知っている人は飛ばしてください。

 

、という概念を

 

子供の頃みたアンパンマンのような、ヒーロー悪者という捉え方をしてしまうことです。

 

善い人と悪い人がいるという捉え方

 

ヒーローの行為をなぞれば、「善」だし

悪者の行為をなぞれば「悪」である

 

これは大きな勘違いです。

 

「善を行わない者は誰一人としていない」という概念があります。

 

アンパンマンは善を行っているし。

 

バイキンマンも自分にとっての善を行っているという概念です。

 

誰もが必ず良心を持っていて、善を行おうとしている。

 

凶悪な大量殺人犯であっても例外ではありません。

この世界観を知ってはじめて、良心の質の話ができます。

 

 

質の高い良心

 

僕のこれからの人生では、良心の質をあげていくことが大テーマとなっています。

 

質の高い良心を持てば、大きなエネルギーを得て、本気で人生がガラリと変わると思っています。

 

もしかしたら、先んじて良心の質について考えている考えの速い方もいるかもしれません。

 

その前に、一つ取り払っておきたいのは

犯罪者や悪役は、質の低い良心を持っている

という考え方です。

 

逆です。

寧ろ悪役や犯罪者の方が極めて質の高い良心を持っています。

 

バイキンマンはとても高い質の良心を持っています。

でなければあれだけエネルギッシュに粘り強く、悪事を行うことはできません。

 

アンパンマンも同じく、とても質の高い良心を持っています。

 

質の高い良心は強いエネルギーを生みます。

 

 

良心の質は、良心が自分の中にあるか自分の外にあるかで決まるというのが、僕の結論です。

 

 

そのルールは自分のもの?他人のもの?

 

自分の中の良心、自分の外の良心

 

と言われてピンとくるものはあるでしょうか?

 

自分の中の良心とは「自分できめたルールを守るため良心」であり

自分の外の良心とは「他人、社会が決めたルールを守る良心」であるというものです。

 

前者を「私的良心」と呼び(質が高い)

後者を「公的良心」と読んでます。(質が低い)

 

(かなり独自に進めてますが、似通った思想、哲学があったら教えてください。)

 

僕は現時点で確実に、公的良心が極めて大きな力を持っています。

 

なので質の高い良心を持ちたい

私的良心の力を強めたいとそう熱望しています。

 

どうやって公的良心は私的良心へと変わっていくのでしょうか?

 

そうやって、また考えてるうちに

人間は成長における、"とあるプロセス"を使って「私的良心」を強めていることに気づきました。

 

公的良心をぶっ壊す

 

とあるプロセスとは、反抗というプロセスです。

 

反抗期に対しては、いろんな意見や解釈があるので少し恐れ多いですが

 

僕はその反抗期というプロセスを公的良心を壊していき、私的良心を組み込んでいくプロセスなんだなと捉えています。

 

 

昔は「うるせぇ!クソババア!」罵倒を飛ばし、やんちゃだった子どもが大人になって、親孝行をするような感動的な歌もいくつか耳にしますが。

 

あれも、公的良心と私的良心の組み込みが上手くいった例だと思っています。

 

 

そして、もう一つ、僕は反抗期をほとんど経験していないのです。

 

「本当は何をしても良い」と考えてみる

 

もちろん反抗期になれば必ず、私的良心が育つわけではありません。

反抗期があまりに受け入れられず、反撃にあってしまうと、より反抗心は強くなり、最悪、大きな犯罪につながったりもします。

 

反抗期とは公的良心を適切に壊し、私的良心を組み立てるためのプロセスです。

 

公的良心を適切に壊すことが私的良心に繋がる例として、もうひとつ面白いものがあります。

 

シュタイナー教育を採用している幼稚園での話です。

 

どうやら、とあるシュタイナー教育を掲げる幼稚園の子供たちが"あまりに自由で" "とても思いやりがない"というのを本で読みました。

 

それこそ、通常の保育園で勤務している方では挫けてしまうほどに。

 

教育的な強要を行わず、悪いことをしても叱らないので、そういった環境になるそうです。

 

 

しかし、面白いことに、小学生になった頃には、とても思いやりを持つ、子供に育っているんだとか。

 

 

喧嘩や意地悪に大人が口出しをしないことで、あくまで自発的に良心を育み
「そのためにはどうしたら良いだろう」と考えるようになる。

 

まさに私的良心を上手く育んでいます。

 

他人が決めたルールよりも

自分が決めたルールの方が質が高いのです。

 

大人が介入しないことの大切さはここにあり。

良心の質の基準もここにあります。

 

 

万引きなどの軽犯罪もここで変わると思います。

 

他人がルールを作り与えても

 

他人が見てない時、という例外が生まれたりします。

 

 

それが万引きやいじめなどに繋がります。

 

監視カメラもまさに公的良心を刺激するための武器です。

 

一方、自分で決めたルールなら、そう簡単には破りません。

なぜなら自分がずっと見てるんですから、当然です。

 

 

さて、どうしましょう、僕はシュタイナー教育を受けていなければ、反抗期も迎えていません。

 

子供時代の私的良心を育む機会を逃したまま大人になったようです。

 

 

その対策として今、やっていることは、「本当は何をしても良い」ということを、度々考えるようにしています。

 

例えば、お金はないけど欲しいものがあるとき

 

「本当は何をしても良い、盗んでも良いんだよ?」

 

そう考えてみるんです。

 

そしてきっと「それでもしない」と考えるので

 

「なぜ?」と問いかけます。

「みんなが見てるから?」とも問い掛けます。

 

そして「自分がそうしたいから」そう決意を固める

そんなことをコンビニとかでやってます 笑

 

自覚と責任を持って自分で"選択"する

 

私的良心は「自分のやりたいこと」と直結しているので、エネルギーがとても強いです。

 

例えばダイエット本を読んだ時に

 

「本で書いてあったから」

と言うよりも

「本で書いてあったことを行う、と"自分"で決めたから」

と思っている人の方が、強い推進力を得ます。

 

すべてわざわざ選択する。

簡単な事ではありません

 

いくら意識的に念じても

無意識の中では、公的良心が渦巻いています。

 

他人が見てるからやる、守る

尊敬してるあの人が言ったから採用してる。

 

"自分で選んだこと"だと意識することで、少しずつ私的良心は鍛えられるのだと思います。

 

全ての選択の責任は自分にある

 

僕も、学びの中で、沢山の尊敬できる人たちがいます。

行動の規範としている、心理学や哲学がいくつかあります。

 

それでも、その人に言われたからやっている、と言う考えは一切、捨てようと思いました。

 

このブログに書いてあることも同じですね。

この考えを採用するかどうかは、あなた次第であり僕次第です。

 

「本当は何をしても良い」

「でもやらない」

「自分で選んだから」

 

僕の本心は今、ずるいことや怠惰な思考でいっぱいです

 

本当は何もやりたくない

何もしなくて良いよって優しくされて寝ていたい

 

お金なんてなくても欲しいものを手に入れたいし、食べたいもの食べたい。

 

自分がどれだけ投げやりに過ごしても、ただただ親切に接して欲しい。

 

 

反対に目標を実現したいという気持ちも本心です。

 

 

でも、上記で書いたような、だらしない思考も、紛れもない本心です。

 

きっと皆さんも、そんな思いがあるはずです

(ない方は失礼しました。)

 

今までは、その本心をごまかして

見栄えの良い本心だけを掻い摘んでました。

 

これからは、その醜くて、だらしない本心を、他人には見せずとも、自分には誤魔化さず、さらけ出そうと思いました。

 

「あーやりたくない」「今日は寝たい」

「怖い怖い」「何もせず願いを叶えたい」

 

 

 

それが自分なりの公的良心の壊し方でした。

 

本当に何もしなくなったらどうしようね

 

もし読んでる方も、自分の中の良心にピンと来たら、考えてみると良いかもです。

 

長文にお付き合いいただきありがとうございました。

 

どうやら僕は成功したくないらしい【青空の怖さを受け入れる】

今、色んな事を僕は組み立てています。

 

いや、組み立てようとしています

 

今日の記事においては何を企んでいるのか、という具体的な話は置いておきます。

 

それよりも、そういった達成したい望みや努力がありながらも、心の底では成功を望んでいない自分の存在をとうとう認知し始めた事、その話をします。

 

この話は、叶えたいことがあるけど、何故か叶わない人ほど、なにか参考になるものはあると思っています。

 

戯言だと思って、一読ください。

 

僕は目標は目標で持ちながら、それが実現することはないだろうとどこかで常々思っています。

 

昔、小学生の頃の話

 

宿題というものを日々嫌がっていたある日、宿題を次の日に先延ばしして、起きた朝

 

ぼんやりとした頭で、宿題やらなきゃという事を覚えていました

 

でも思うだけで、体は布団から出ようとせず、そのまま夢の中で宿題を終わらせたんです(二度寝)

 

もう一度、起きると実際には何も終わってなくて、この時の落ち込みようと言ったらなかったです

 

夢や目標を思うと、この時の感覚が蘇ってくるんです。

 

 

頭の中で思ったことが

実現するわけがない。そんな事は絶対にありえない

 

 

でも、あの頃と今の僕は違う訳です

 

なにより宿題とは違って、夢や目標は考えるだけでワクワクするんです。

 

成功の未来を思うとそのためなら頑張れるとも思うんです。

 

だから慣れない勉強もし始めて、色んな事柄に関心を持って、それすらも楽しくなってきた。

 

それでも、前述した、実現する訳ないという考えが消えないのです。

 

もっと、具体的にいうなら、間接的な事は行えるし学べるのに、直接的な行動には出ないのです。

 

宿題の時とまったく同じなんです。

 

ということは、原因も一緒なのではないか。

宿題の「やるべき」という義務感を拒絶してたように

 

何かを拒絶している、そう考えました。

 

そういえば僕はこんな事を言ったことがあるんです。

 

責任と可能性は紙一重

 

 

例えば社長という、大きな可能性を手に入れた時

 

同時に大きな責任も手に入れる

 

 

責任と可能性だけじゃない

 

物事には必ずポジティブとネガティブが共存している。

 

それを中心に考えたら出てくること出てくること

大きな石をひっくり返したら、ワラワラと虫がいるように、あらゆるポジティブに潜んだ、ネガティブがワラワラといました。

 

成功したいなら、失敗しないといけない

自分を変えたいなら今の自分を捨てなければいけない

自分の望みを叶えたいなら誰かの望みを切り捨てないといけない。

 

 

 

 

そういえばこのブログは青い鳥はつぶやくなんて題名だったけれど

 

きっと僕が鳥ならば、ずっと今の今まで枝に止まっていることでしょう

 

その枝から、見た青い空はそれはそれは綺麗で

そこを自由に飛び回ることを、空を見るだけでワクワクすることでしょう。

 

でも、恐らく実際に飛んでみては、広大すぎる空を前にどこにいけば良いのかも分からず

風は吹くし、誰もいない、いたとしてもみんな自分のことで精一杯だったりもする。

 

その空の恐ろしさを僕はきっと、本能的に気付いてるんだなと思いました。

 

だから、やりたいけどやりたくない

という矛盾があり得るのだなとも思いました

 

 

成功したいけど失敗したくない

可能性は欲しいけど、責任は欲しくない

自分を変えたいけど、捨てたくはない

自分の望みを叶えたいけど、誰かの望みを裏切りたくない

 

本当の意味で夢を見てたんだなと思います。

 

さっき書いたフレーズを借りるなら

 

実現するわけがない。そんな事は絶対にありえない

 

当たり前やんけ。

関西人としてツッコミを入れたくなる、大掛かりなボケです

 

そう、そんなことがあり得るわけがないんです。

 

よって僕は成功したくないという事を、やっと認知しました。

 

 

やる気とか能力とか環境とか、色々な問題提起をして誤魔化していたけれど、とうとう誤魔化せなくなったんだと思います。

 

 

ぼくの当分のタスクは空の恐怖を知り、受け入れる事。

 

成功したい

失敗も糧にしたい

そうして前に進みたい

 

そうやって全ての方向性が一致した時、初めて実現するんだろうなと思います。

 

さぁどうしようか、あぁ怖い。

 

もう少し枝に止まって、じっくり考えてみようと思います。

 

 

 

 

 

 

関心が他人に行きすぎた時、すぐにできること

自分らしく生きることっていうのは素晴らしいですが

簡単ではありません

 

人は常に何かを考えている生き物です。

何も考えない事など、眠っているときや意識を失っているときなど例外はあれだ、ほぼ不可能です。

 

今から目を瞑って何も考えないでください、と言われたら

 

目を瞑って「何も考えない」と考えてしまうはずです。

 

 

そうやって一日中かけて駆けずり回る思考や感覚は、自分の価値観や世界観や個性を構築します。

 

1日1日色々なことを考えているでしょうが、もしかしたら、その多くは仕事のことや他人のことで埋め尽くされているかもしれません。

 

自分のことを考える時間を

僕は超気を使う人です。

 

 

なので、そもそも他人のことばかり考えてしまっているのは

他でもない僕なんです。

 

 

電車の中やスーパーのレジ中や人が多く集まる中では特に、他人の存在に意識が向き、自分を見失います。

 

日常に大きな支障はないですが。

 

初対面との会話や本に集中したい時とか、いざという時に困ります。

 

 

そんな時、僕はとりあえず目を瞑って、今この場にいる人たちを全て消し去ります。(勝手に消してます、すいません)

 

周りに自分しかいない世界を想像しながら。

深呼吸をし、自分の気持ちを観察したり

 

カフェや電車や公園など、公共の場でやってみると自分はすごく心が落ち着きます。

 

他にも色々と培った知識やノウハウはありますが。

今回はその僕なりのやり方を伝えたかっただけです。

 

読んでくれた方ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

【常識の分析】常識は最強で最低な武器である?

僕はまだ短い人生ではありますが、その半分以上の時間を他人のために使い込んだという自信があります。

 

悪い意味でです。

 

他人を思いやる、なんてことを美徳とする風潮も最近は批判されたりもしてますが。

 

やはり、そうやって生きてしまう強制力は社会の隅々に溢れ出しています。

 

調和なんていうのは足を引っ張り合ってるやつらの言い訳だ、みたいなことを言っていたのは岡本太郎さんだったでしょうか。

 

 

その通り、自分を顧みずに他人を思いやる調和など、足の引っ張りあいでしかないのです。

 

 

 

 

でもね、どうしてもやめられないんです。

 

その足の引っ張り合いを

 

引っ張られてしまうし

引っ張ってしまう。

 

魔法の言葉

「こうあるべきだよね?」

 

 

この、自分を含めた足を引っ張り合い集団の最大の武器は「常識」です

 

まずは常識を手放す

 

前の記事でもこんな記事を書きましたが。

 

aoitori-tubuyaku.hateblo.jp

 

この世界で決められたことなんて、何一つありません。

 

不特定多数が信じたからそこにある

 

それが常識の正体です。

 

我々、人類、ホモサピエンス嘘(フィクション)によって進化してきた

というのはサピエンス全史という有名な著書に記された興味深い見解ですが。

 

例えば、お金も政治も宗教も、数十億人という巨大な社会で信じ込まれたフィクションだからこそ、成立する。

物理的にはただの紙切れだったりするわけです。

 

その中には常識も含まれると思っています。

 

 

つまり常識嘘でありフィクションです。

 

特にこの国はその嘘を強烈に信じています。

 

なので常識を手放すことは思ってる以上に難しいこととなっているのです。

 

非常識な人こそ有利?

 

僕は普通の人より常識を手放しやすい立場にあるなと思っています。

 

それは、僕が大変非常識な人間だったからです。

 

環境で言えば、僕はよく大阪にある西成という地区に親とよく出向いていました。

 

今では、新世界やアベノハルカスなども近くにあり、ホテルも安いことから、旅行に来た人々の利用が多く、かなり整備が進んでいますが。

 

とにかく、当時は小便の匂いに塗れ、ブルーシートの家がたくさん並び、ぼったくりや違法販売のDVDやらが売られる朝イチがあり。

 

自分が見てないとこでは、より過激で曰く付きなエピソードはあるでしょうが、それは調べてもらうとして

僕はその環境にある程度慣れていました。

 

他の同級生を連れて行った時があったのですが、見事に引かれました。

 

それいがいにも中学から義務教育の場から離れ、フリースクールに行ったり

 

生活習慣も所々抜けていたり。

空気が読めなかったり。

みんなが当たり前に知っていることを知らない場面も多かったり。

 

常識から少しときには大きく外れた子供時代を送ってきました。

 

 

悩んだこともありながら、これらの良かった側面は、常識を掲げる機会がなかったことです。

 

 

周りには、たくさん常識を掲げられましたけどね。

 

とにかく常識を掲げるのは控えたほうがいいなと、常々思います。

 

常識は他人や自分の個性を認めないですし

 

思考停止もしてしまいます。

 

〇〇だから、やめたほうがいいよ

という、明確な理由や思いではなく。

 

みんな言ってるからやめたほうがいいよ、で済ましてしまうわけです。

 

やはり暴論ですし、なにより考える力が身につきません。

 

ただ、常識を武器にすることをやめたところで1番難しいのは

常識を武器にする人たちが周りにいること

ですよね、、

 

常識を手放せない最大の理由

 

常識というのは、世界規模もしくは国規模の多数決です。

 

1億人が住う日本なら必ず数千万人もの人が無意識に常識を持っています。

 

そして絶対にその傾向は無くならないと思っています。

なぜなら常識は本当に便利だからです。

 

だから、難しいことに、自分から変わるしかありません。

そういう意味で、常識を捨てることは相当の勇気がいります。

 

もし周りから常識を武器として掲げられた時、自分はどうすればいいのでしょうか。

 

 

僕はそれに対しての答えはは「気にしない」それに尽きると思います。

 

 

 

 

無理だよって言う人がいるならばはっきりと言いますが。

 

 

 

 

 

僕も無理です。

 

 

 

 

常識は先ほども言った通り世界規模の多数決なので、その力は絶大です。

それを、何も考えずに指先一つで振り回せるから、便利で、誰もが使いたくなるのです。

 

繰り返すようですが、常識は個性と考える力を失わせます。

 

 

僕は、常識という強烈な武器を気にしないことは無理ですと言いましたが

 

それは、今の僕ではという意味を含んでいます。

気にしないための能力が今の僕には備わってないのです。

 

 

デフォルト最強武器「常識」を無力化する能力

 

正直ここまで長々と書くつもりはなかったんですが、、

 

ここまで書いたので、進めたいと思います。

そろそろ終わりますので。

 

先ほどから、常識のデメリットは「個性」「考える力」を失わせるところにあると言いました。

 

 

 

この2つのワードが重要なのかなと僕は思っています

 

 

 

つまりですね、「個性」「考える力」を手に入れれば、常識を無力化することが出来ると、僕は思っています。

 

 

「個性」を確立するほど、常識に惑わされなくなる。

 

僕はそのために、とにかく自分の個性をいま分析したり。

個性強めたりしています。

 

昔から好きだったきらいだったものをまとめ、そこに共通点を見出したり

価値観リストをノートに整理したり

 

自分が好きなものをとことん探したり。

 

 

 

そして「考える力」については、ちょっと言い方が変わりますが。

 

考える力を手に入れたいというよりは

 

常識ならぬ知識を手に入れたい、ということでしょうか。

 

 

具体例を上げるためにちょうど良い、僕がきらいだった二つの生活習慣があるんですが。

 

それが、「歯磨き」と「耳かき」です。

 

非常識な僕はこれら嫌な生活習慣を回避して過ごしていました。

 

学校などで、そのことを言うと、「えーーー、、」とひかれてしまいました。

 

そこには常識があります。

 

しかし、常識であるからって、必ず必要なわけではないし、不要なわけでもありません。

 

今では、歯磨きはやらないと、胃腸に影響が出る、歯がボロボロになり噛み合わせが悪いと姿勢が悪くなり、関節の病気にかかることもある

 

ほとんどの老人が後悔したことに歯を大事にしなかったこと、を挙げているところを見たりして。

 

歯磨きは大事という、常識ではなく知識を手に入れたので、毎日歯磨きはしています。

 

 

一方で、耳かきについては、耳垢は自然排出されるので耳に異常がない限りは耳かきをする必要はないことや

 

むしろ、耳の内部を傷つけて炎症を起こしたり、耳垢を奥に押し込んでしまい耳の中を塞いでしまう可能性があると指摘されているので、耳掃除は一切していません。

 

 

 

僕が言いたいのは、知識で常識を覆せ

とかではなくて。

 

常識に頼らずに知識で行動を修正していくことが大事だということなんです。

 

 

たしかに常識はたくさんの人が信じてるだけあって、正しい常識も多いです。

 

ですが、根拠がみんな言ってるから

というのは、やはり知性に欠けます。

 

 

 

 

大事なのはそこなんです。

 

常識を気にしないというのは。

 

常識に対抗するということではなく

もちろん屈服することでもなく。

 

 

常識と一定の距離を置くことです。

 

周りに常識があることは認めながらも

 

自分の知識を信じ、個性を信じる

 

なんか常識ってのがあるらしいよ?

 

みたいなスタンスです。(ようわからん)

 

長々しく書きましたが。

 

みんなもそうしましょう、などと言うつもりは毛頭なく。

今回の記事は、自分はそんなふうに生きていくよ、という意思表示です。

 

というか僕の記事は全てそういうニュアンス、スタンスです。

 

常識として押し付けたくないがためのスタンスでしょうか。

 

なんか言ってるなと

面白がってくれたらと思います。

 

一読いただき、ありがとうございました。

 

 

 

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

 

 

 

【子供時代】泣き叫んでも伝わらない感覚

今日はスーパーでバイトのレジ業務中、泣いてる子供を見かけた

 

 

それはいつもの事ではあるが、僕は気になってしまう。

 

 

母親は「泣き止むのは時間の問題」とばかりに、一切、その大きな泣き声に反応を見せないのだ。

 

サッカー台にて商品をレジ袋に詰め続ける。 

 

 

子供はとにかく必死に泣き続けながら、母親の手が頭に触れた際に、それに怒ったりして、とにかく責める理由を探していた。

 

 

反応されるまでは泣き止みたくない、というように、涙が出なくなっても声を上げていた。


僕はこの場合に誰が悪い人だとか誰がかわいそうだとか、そういうことは思いたくない。

 

 

それなりのストーリーがあって、目の前の光景は成り立っているのだから、そこは母親の思いも子供の思いも尊重したい。

 


でも僕は、ものすごく怒っていた。

 

 

 

「伝わらない伝わらない伝わらない」

 

 


その感覚が、子供を通して、どんどん入り込んでくる。

泣き叫んでも、暴れても、顔を真っ赤にしても、伝わらない。

 

いつか泣き止んでしまうことも知っている、それが悔しい。


レジを通しながら、収まらない怒りを抱えることとなった。

 

もちろんその怒りも誰が悪いわけでもない。

 

伝わらない

 

そんな思いを昔から抱いていた。

 

 

子供の頃、強く記憶に残っているのが、寝室で泣いていた記憶

 

僕は寝室で一人で泣き叫んで、親が来るのを待っていたのだ。

何度かそんな事があった。

 

 

来てくれる日もあったし、来る前に泣き止んでしまった時もあった。

 

寝室の入り口を見ながら、泣いていた記憶、酸素が薄くなって、意識も少しぼんやりとしながら見ていたあの滲んだ入り口を鮮明に思い出す。 

 

「伝わってほしい」

そんな思いを、声いっぱいに表情いっぱいに、表現する。


そのために、どんどん怒りを沸かせる。
ただ駆けつけて「どうしたの?」とか「ごめんね」とか、そういう言葉を求めて。


10年以上も前のことなのに、あの頃からずっと続いてるんだなぁ、と不思議に思った。

 

そうしてバイト中の怒りを抱えながら、子供を見るとまだまだ泣いていた。


母親も変わらずに、袋詰めを続けていた。

 

今まで、泣いてる子供を見て、怒りが湧いてくる時、見ないようにしていたけれど。

 

今日はその気持ちに寄り添おうと、なんとなく思った。


子供に伝えた

 

「伝わらないのつらいよね」

「そのまま泣き止むのは悔しいよね」

「君の気持ちは俺には伝わってるよ」


もちろんレジをしてるときに、いきなりそんなことを言い出したら、おかしな店員になってしまうので

 

 

心の中で。

 


すると怒りはそこで一度スーッと引いていった。
と思ったら、次はジワッと泣きそうな気分になってきたので、これまたおかしな店員にならないように、そこで一度ストップした。

 

 

 

突然の癒しだった。

 

目の前の子どもにあの頃の自分の姿を投影していたことが、よく分かった
子どもに言葉をかけたことによって、あの頃の自分への言葉となっていた。


結局、母親は最後まで子供に反応を見せることなく、商品を詰め終わり、出口に向かっていった。

 

子供は、まだ泣き叫んでいた。

 

あの子も将来、自分と同じような複雑な気持ちを抱えるかもしれないし。

 

母親も同じなのかもしれないと思った。

 

 

それが不幸だとは思わない。

 

自分は泣いてる記憶よりも、楽しい記憶の方がたくさん残っている。

 

突然の怒りに惑わされたって、穏やかに過ごせる時間の方が圧倒的に長い。


悪いこともあれば良いこともある、それは誰にもとやかく言えないのだ。

 

なにより自分は成長の中で少しずつそんな怒りも癒されていっている

 


でもやっぱり、伝わらないの苦しみを思い出すと、自分の子供や関わってる人たちには「伝わってるよ」って言ってあげたいなと思うし。


子供がいる人には、「伝わっているよ」っていうのをちゃんと教えてあげてほしいと思う。


今日はバイト帰りの際も、「お疲れ様です」と言えば「お疲れ様」と返ってくる


そんなやり取りですら、胸が熱くなってしまった。

 

誰かに言葉伝わって、ちゃんと返ってくる、

これもやっぱり当たり前ではなかった。

 

それが今日の大きな教訓です。