青い鳥はつぶやく

オルタナティブ教育から、バイトをし結婚をし、グラフィックデザイナーやブロガーなどを目指しながら得たいろんな産物(知識や経験)をつぶやき続ける、そんなブログです。

【子供時代】泣き叫んでも伝わらない感覚

今日はスーパーでバイトのレジ業務中、泣いてる子供を見かけた

 

 

それはいつもの事ではあるが、僕は気になってしまう。

 

 

母親は「泣き止むのは時間の問題」とばかりに、一切、その大きな泣き声に反応を見せないのだ。

 

サッカー台にて商品をレジ袋に詰め続ける。 

 

 

子供はとにかく必死に泣き続けながら、母親の手が頭に触れた際に、それに怒ったりして、とにかく責める理由を探していた。

 

 

反応されるまでは泣き止みたくない、というように、涙が出なくなっても声を上げていた。


僕はこの場合に誰が悪い人だとか誰がかわいそうだとか、そういうことは思いたくない。

 

 

それなりのストーリーがあって、目の前の光景は成り立っているのだから、そこは母親の思いも子供の思いも尊重したい。

 


でも僕は、ものすごく怒っていた。

 

 

 

「伝わらない伝わらない伝わらない」

 

 


その感覚が、子供を通して、どんどん入り込んでくる。

泣き叫んでも、暴れても、顔を真っ赤にしても、伝わらない。

 

いつか泣き止んでしまうことも知っている、それが悔しい。


レジを通しながら、収まらない怒りを抱えることとなった。

 

もちろんその怒りも誰が悪いわけでもない。

 

伝わらない

 

そんな思いを昔から抱いていた。

 

 

子供の頃、強く記憶に残っているのが、寝室で泣いていた記憶

 

僕は寝室で一人で泣き叫んで、親が来るのを待っていたのだ。

何度かそんな事があった。

 

 

来てくれる日もあったし、来る前に泣き止んでしまった時もあった。

 

寝室の入り口を見ながら、泣いていた記憶、酸素が薄くなって、意識も少しぼんやりとしながら見ていたあの滲んだ入り口を鮮明に思い出す。 

 

「伝わってほしい」

そんな思いを、声いっぱいに表情いっぱいに、表現する。


そのために、どんどん怒りを沸かせる。
ただ駆けつけて「どうしたの?」とか「ごめんね」とか、そういう言葉を求めて。


10年以上も前のことなのに、あの頃からずっと続いてるんだなぁ、と不思議に思った。

 

そうしてバイト中の怒りを抱えながら、子供を見るとまだまだ泣いていた。


母親も変わらずに、袋詰めを続けていた。

 

今まで、泣いてる子供を見て、怒りが湧いてくる時、見ないようにしていたけれど。

 

今日はその気持ちに寄り添おうと、なんとなく思った。


子供に伝えた

 

「伝わらないのつらいよね」

「そのまま泣き止むのは悔しいよね」

「君の気持ちは俺には伝わってるよ」


もちろんレジをしてるときに、いきなりそんなことを言い出したら、おかしな店員になってしまうので

 

 

心の中で。

 


すると怒りはそこで一度スーッと引いていった。
と思ったら、次はジワッと泣きそうな気分になってきたので、これまたおかしな店員にならないように、そこで一度ストップした。

 

 

 

突然の癒しだった。

 

目の前の子どもにあの頃の自分の姿を投影していたことが、よく分かった
子どもに言葉をかけたことによって、あの頃の自分への言葉となっていた。


結局、母親は最後まで子供に反応を見せることなく、商品を詰め終わり、出口に向かっていった。

 

子供は、まだ泣き叫んでいた。

 

あの子も将来、自分と同じような複雑な気持ちを抱えるかもしれないし。

 

母親も同じなのかもしれないと思った。

 

 

それが不幸だとは思わない。

 

自分は泣いてる記憶よりも、楽しい記憶の方がたくさん残っている。

 

突然の怒りに惑わされたって、穏やかに過ごせる時間の方が圧倒的に長い。


悪いこともあれば良いこともある、それは誰にもとやかく言えないのだ。

 

なにより自分は成長の中で少しずつそんな怒りも癒されていっている

 


でもやっぱり、伝わらないの苦しみを思い出すと、自分の子供や関わってる人たちには「伝わってるよ」って言ってあげたいなと思うし。


子供がいる人には、「伝わっているよ」っていうのをちゃんと教えてあげてほしいと思う。


今日はバイト帰りの際も、「お疲れ様です」と言えば「お疲れ様」と返ってくる


そんなやり取りですら、胸が熱くなってしまった。

 

誰かに言葉伝わって、ちゃんと返ってくる、

これもやっぱり当たり前ではなかった。

 

それが今日の大きな教訓です。